水戸の見どころ(作成中)

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見どころ

水戸城移築薬医門

二中見晴台

かつて金網だった水戸二中の外壁が城郭風に変わってから2、3年たちます。
私が卒業した年に完成し、卒業式のみ使用できた体育館も、耐震強度がないせいなのか、取り壊されてもうありません。
20年ちょっとで壊すなんて当時考えてなかったでしょうね~。
かつて私の頃は1学年14クラスもあったのに今は千波中も分離したこともありますが、3クラス?しかないようです。現在その水戸二中の一角に、「二中見晴らし台」があります。利用時間は限られており、9時から4時半までです。
※みとぶらより抜粋

水府流水泳道場跡

那珂川を臨む水戸に古くから発達した武術で泳法は「のし泳ぎ」を基本としました。上町流は、元禄年間に島村孫衛門正広が指南し、下町流は小松郡蔵、荷見守荘が指導していました。9代藩主斉昭が弘道館を開くと、水府流水術と命名し武術の一科として奨励しました。道場は水府橋下の杉山道場のほか数カ所あって廃藩後も昭和の中頃まで栄え、現在は水府流水術協会が伝承しています。
※水戸商工会議所アーカイブスより

茨城県指定史跡 水戸城跡

水戸城は、那珂川と千波湖にはさまれた大地の東端に位置し、鎌倉時代の初め常陸大掾氏の一族馬場資幹が築いたものです。
次いで15世紀前半に江戸氏が河和田城から進出して水戸城を取り付近を領しましたが、16世紀末になると太田の佐竹義宣が勢力を強めて江戸氏を滅ぼし、城郭を西に拡大して市街も造りました。
ところが程なく徳川家康が関ヶ原の戦いに勝つと佐竹氏を秋田に移し、その跡を治めて子息に与え、慶長14年(1609)、末子頼房が初代藩主として城郭を拡大し、上町下町に町を造りました。
水戸城には、天守や石垣がなく、二の丸に御殿と三階櫓がありましたがそれも明治の初めや、昭和20年(1945)の戦災で焼け、現在は本丸跡・二の丸の入り口等3か所の土塁と濠が県指定史跡となっています。
※県教育委員会公式HPより

弘道館正庁

水戸といえば「水戸黄門」というほど、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が有名です。そこにもう一人、いっしょに知ってほしい名君がいます。それが第9代藩主の徳川斉昭。弘道館も偕楽園も、この斉昭の「一張一弛」(いっちょういっし)という思想によって作られました。時には厳格に、時には寛容に生きるべきという儒学の思想です。厳格に学問に励む場所が弘道館。藩主から武士、領民までみんなで楽しむ場所が偕楽園だったのです。これは封建的で、厳格さが重んじられていた当時では、かなり開かれた考えでした。※観光いばらきより

水戸市水道低区配水塔

水戸市街地で下市(旧下町)と呼ばれる低地へ配水するために建設された施設。ドーム型の屋根、張り出したバルコニーなどモダンなフォルムに加え、随所にきめ細やかな装飾が施されており、一見するとこれが水道施設とは思えない。平成12年(2000)に配水塔としての役目を終え、平成17年(2005)の修復工事で、当時のカラーリングに復元された。設計者の水道技師後藤鶴松は起工式と同日に産まれた我が子に「塔美子(とみこ)」と名付けるほど、この工事に情熱を注いでいたそうだ。※塔水舊より

朱舜水像(舜水祠堂跡)

かつての田見小路、今の北見町NTT東日本茨城支社の入り口近くに朱舜水(しゅしゅんすい)の像が建っています。ここから西へ200mで気象台前交差点ですが、その交差点の北東側にあたる旧田見小路の西端には、藩政時代、舜水祠堂と呼ばれる堂舎がありました。これは水戸藩三代の藩主綱條(つなえだ)公(粛(しゅく)公)の時代、正徳2年(1712)に駒込の別邸から移されたもので、舜水の神主(しんしゅ)(位牌のようなもの)を祀ってありました。いうまでもなく朱舜水は、明国の学者で光圀公(義公)が水戸に招聘(しょうへい)して師と仰いだ人物で、墓は常陸太田の瑞龍山の水戸家の墓所にあります。祠堂は初め田代一遊が堂守に命ぜられましたが、その死後、弟子の青山一溪(谿)が堂守となり、以後代々青山家がここに住み、堂守となって祀りを継続しました。ここでは定期的に講義が行われ、その講目は江戸に報告されています。やがてこの青山家から延于《のぶゆき》(雲龍(うんりゅう))、その子延光《のぶみつ》(佩弦(はいげん))・延寿《のぶとし》(鉄槍(てつそう))など、水戸文学を代表する人物が輩出します。ちなみに、女性解放運動で名高い山川菊栄は延寿の孫に当ります。
水戸藩士の教育機関施設としては、早く元禄から享保にかけて、大町に、光圀公の命によって設けられた森尚謙の儼塾(げんじゅく)があり、その後を祠堂が享けた形となったのですが、私塾の出現によってその役割を終えたのでしょうか、天保初年にはすでに廃絶していたようです。その敷地には舜水の愛した桜樹が植えられていて、「花時(はなどき)ノ美観(びかん)、清雅ニシテ、水府中ノ勝地(しょうち)タリ」と『新編常陸国誌』は伝えています。
この祠堂の北側の崖下から台地に上がる道は、水戸台地の南北を貫く幹線として古くから利用されていました。水戸二高の西側を通って梅香に抜ける、かつての大坂町です。※水戸商工会議所公式HPより

水戸八景「青柳夜雨」

水戸八景とは、水戸徳川家第九代藩主斉昭公が、天保四年(1833年)に水戸藩内を巡視し八つの景勝地を選定したものです。選ばれた地には、斉昭公自筆の碑が建てられました。 最近の洪水対策により那珂川の堤防も高くなり、面影はありませんが、当時は水戸城、それに続く城下町などが碑の位置から望むことができました。※観光いばらきより

格さんの墓

愛宕山古墳群 馬塚古墳

愛宕山古墳は、那珂川を見下ろす台地上に立地し、那珂川流域における最大規模を有する前方後円墳です。墳丘全長は137m、後円部径78m、同全高10m余、前方部幅73m、同前高9mを測る典型的な中期古墳の様相を呈しています。後円部墳頂及び裾部において大形の円筒埴輪が発見されたことから、3~4列に及ぶ埴輪列の存在が推定され、考古学・古代史研究上重要な意義をもっています。古墳の営造年代は、やや下降して、6世紀初頭と思われ、那珂(仲)国造祖(なかのくにのみやつこのそ)建借間命(たけかしまのみこと)の墳墓と考えられます。
※茨城県教育委員会公式HPより

常磐神社・義烈館

偕楽園に隣接し、「水戸の黄門様」として親しまれている徳川光圀公と9代藩主徳川斉昭公をまつる水戸で最大の神社です。両公のおくり名「義公」「烈公」から名をとった義烈館には、遺品を中心に書画・工芸品など貴重なものが展示されています。なかでも、「大日本史」、追鳥狩に使用したと言われる「陣太鼓」、「大砲」は必見です。 ※うぃーくえんど茨城

保和苑

寺の名を大悲山保和院(だいひざんほわいん)桂岸寺といいます。遠く元禄時代、徳川光圀公(水戸黄門)が寺の庭を愛されて保和園と名付けられたのが始まりといわれています。昭和初期、地元有志の手によって拡張整備され、池に築山を配した純日本庭園になり、名前も「保和苑」となりました。昭和25年、桂岸寺より水戸市へ移管されたことにより、昭和36年地元と市による保和苑振興協議会が発足し、運営されています。昭和30年代、苑を拡張してあじさいの植栽が行われました。初夏になりますと、1.5haの敷地に30数種類、約6,000本のあじさいが咲き競い「水戸のあじさいまつり」が盛大に開催されます。
※うぃーくえんど茨城

日新塾跡

大鍋展望台・あずまや

木葉下金山跡

牛伏古墳群

大串貝塚

水戸市 田んぼアート

浴徳泉の碑

車丹波守憤恨の地

吉田城跡

備前堀三又水門

備前堀

藤田東湖 誕生の地

好文亭

中崎家住宅

楮川ダム

 

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