常陸太田の神社・パワースポット

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神社&パワースポット

佐竹寺
寺記によれば大同2年(807年)徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元年(985年)に板東巡礼中の花山院が、随行の元蜜上人に聖徳太子作の十一面観音像を与えて建立させたとされている。建立当時は観音寺と呼ばれ、現在地の北西、稲村神社の北の洞崎の峰にあった。源義光の孫の源昌義は、寺領を寄進し祈願所とした。昌義はこの寺で節が1つしかない竹を見つけ、これを瑞兆とし、佐竹氏を称したとされる。天文12年(1543年)に兵火により焼失するが、天文15年(1546年)に佐竹氏18代佐竹義昭が佐竹城(太田城)の鬼門除けとして現在地に再建した。最盛期には六支院と三ヶ坊を有したが、関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退する。それでも、江戸時代は坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあったが、明治に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24年(1949年)まで無住の寺であった。Wikipediaより

東金砂神社
東金砂山の頂上に位置する神社で,祭神は大己貴命と少彦名命。山田川の谷を挟んで西金砂神社と対をなしています。
創建は西金砂神社と同じく延暦25(806)年,平城天皇の勅願によって宝珠上人が社殿を造営し,祭壇を設けて,近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀し,国家安泰,五穀豊穣の祈願所としたのが始まりとされています。その翌年には,坂上田村麿が蝦夷征伐の際に多宝塔を建立。中世には源頼義とその子義家が奥州征討の際に勝利を祈願したほか,祈願所と定めた佐竹氏は神領1,200石を献じ,家紋の扇を当社の紋章に使用することを認めました。
近世に入っても,徳川3代将軍家光が社領24石を寄進するなど,創建以来,手厚い保護を受けてきたことがわかります。
樹齢約500年を誇る御神木のモチノキは茨城県指定文化財。72年ごとに行われる大祭礼や毎年2月11日(旧暦正月3日)に行われる嵐除祭,また,それらの際に奉納される田楽舞などでも知られています。
※常陸太田市公式HPより写真は常陸太田市観光物産協会様より

西金砂神社
西金砂山の頂上にある神社で,祭神は大己貴命と国常立命と少彦名命。大同元(806)年に天台僧の宝珠上人が,社殿を造り祭壇を設けて,近江国比叡山の日吉神社の分霊を勧請・祭祀したのが始まりとされています。
創建当時は,比叡山延暦寺の伽藍を模した七堂伽藍中堂を設け,千手観音を諸沢村堂平に,鐘楼と経堂を赤土村太平山に建てたほか,中染村羅漢沢に十六羅漢を祀りました。
中世は佐竹氏の厚い崇拝を受け,近世には,徳川光圀公の宗教政策によって西金砂山から社寺や古仏像を廃し,僧侶を別の地に移すとともに,社地26石を寄せられました。
社地は自然林に囲まれた西金砂山の一帯を占めており,御神木の老杉,大イチョウ,大サワラなど,茨城県の天然記念物にも指定されている名木の数々を見ることができます。72年ごとに行われる大祭礼や6年毎に行われる小祭礼,それらの際に奉納される田楽舞(ともに茨城県指定文化財)でも名を馳せています。
※常陸太田市公式HPより写真は常陸太田観光物産協会様より

真弓神社
スギは本州や四国に多く分布する,日本特産の針葉樹。真弓神社の参道沿いは,立ち並ぶスギの巨木群が原始林的な様相をなしている,生態学的にも貴重な地域です。中でも,同社の北側斜面の中腹にあるこの「爺杉」は,根回り12.8メートル,目通り9.8メートル,高さ約45メートルと,茨城県内でも有数の大きさを誇る巨木。県の天然記念物に指定されているほか,樹齢約900年と推定されるが,樹勢は今なお旺盛です。以前は婆杉もあったが,明治17(1884)年に焼失している。ちなみに,爺杉のある真弓神社は,大同2(807)年に坂上田村麻呂の北征の際に八所権現をまつったことに始まりと言われており,その後も源義家が戦勝を祈願するなど,武門の崇敬社として知られる古社です。
※常陸太田市公式HPより


馬場八幡宮
天喜4(1056)年,源頼義が陸奥の安倍頼時鎮撫に向かう途中,源氏の氏神で,伊勢神宮と並び国家の宗廟と称されていた,石清水八幡宮の神霊を当地に分祀したことが馬場八幡宮の起源。以降,佐竹氏の守護神としても崇められ,初代の昌義は社殿を造営し,大田郷の総社としました。さらに,3代目隆義の頃には,本社,礼拝堂,楼門,神宮寺,庁屋の5つの殿堂を築造。しかし,天正2(1574)年に雷火のために運悪く焼失してしまいます。
現在の社殿は,19代義重が同8(1580)年に造営したもので,本殿の柱上の木鼻の浮彫文様の各面すべてが異なるなど,躍動感にあふれた造り,室町時代の建造様式を今に伝えています。
その後,徳川光圀公の社寺改革により,馬場町,増井町,上大門町,下大門町,新宿町の一部の総社となりました。往時には5年に1度,日立市の久慈浜まで向かう浜下り神事が執り行われていました。※常陸太田市公式HPより


若宮八幡宮
馬場八幡宮(馬場町)と対をなす,佐竹源氏の氏神で太田16町鎮守。佐竹氏13代義仁が,応永元(1394)年に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を,舞鶴(太田)城中に奉るようになったのがその始まりと言われています。
現在の場所に移されたのは宝永5(1708)年のことで,水戸徳川の時代においても篤い信仰を集めたといいます。かつては,東西の金砂神社の大祭礼と同様,日立市の久慈浜まで神輿が渡御し,磯出の神事を盛大に執り行っていました。境内には稀少な文化財が現存しており,神楽殿にある18枚の歌仙絵は江戸末期から明治頃に奉納されたものとみられます。
また,鳥居をくぐったすぐ先にある樹齢500年の大ケヤキは,茨城県指定文化財です。※常陸太田市公式HPより

明世神社
常陸太田市亀作町にある「明世神社」。西200m程の所に馬舟古墳がある。久慈川河口部から内陸部に、往時の居住区ではないのかなと思われる、真弓神社をいただく峰々のふもとまで展開するのがこの地点。
※青葉考古学倶楽部より

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