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主な施設&見どころ
北茨城市歴史民俗資料館(野口雨情記念館)は、北茨城市に生まれ日本三大童謡詩人の一人とされる野口雨情の偉業を顕彰し後世に伝えるために開館されました。また、北茨城市の特色を示す民俗、文化財あるいは歴史の流れを裏づける遺物、文書等の歴史資料を保存展示し、郷土の歴史と文化に対する知識と理解を深め文化の振興を図ることを目的としています。※公式HPより
北原白秋、西条八十と並ぶ三大童謡詩人といわれ「七つの子」「しゃぼん玉」などの童謡や、「磯原節」「磯原小唄」といった新民謡でも知られる野口雨情。
磯原の海を望むように建つ雨情の生家は「観海亭」と呼ばれ、今でも多くの人が訪れています。※北茨城市観光協会より
茨城県天心記念五浦美術館
天心記念五浦美術館は、岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦の作家たちの業績を顕彰するとともに、優れた作品が鑑賞できる美術館として平成9年11月8日に開館しました。 当館のある北茨城市は、県都・水戸から約70km、首都・ 東京から約160km、福島県との県境に位置しています。 五浦海岸の大小の入江と美しい松林は「日本の渚100選」に、海岸の波音は「日本の音風景100選」に選ばれている景勝地です。 またここは明治39年に日本美術院第一部(絵画)が移転し、岡倉天心や五浦の作家たちが活躍しました歴史的な地です。その近くには、今でも当時をほうふつする六角堂や日本美術院跡地をはじめとする史跡が点在しており、散策を楽しむことができます。
六角堂
岡倉天心は、1903(明治36)年の5月頃、飛田周山の案内で五浦を訪れ、この地をいたく気に入りました。天心は、二年後には六角堂をかまえ、冬はボストン美術館勤務、夏は五浦の海に遊び、国際的な活躍の拠点としました。1906(明治39)年11月には、日本美術院を五浦の地に移し、岡倉天心、菱田春草、下村観山、木村武山が家族と共に移り住んで制作に励み、近代美術史に輝かしい一ページを刻んだのです。※観光いばらきより
漁業歴史資料館よう・そろー
海の伝統文化や茨城の漁業などについて学べる資料館です。シラス引き網漁などの漁業体験や、魚のさばき方教室などの体験もでき、併設の物産館や市場食堂で買い物や魚料理も楽しめます。震災後、しばらく休業していましたが、平成25年7月13日(土)、営業を再開しました。※北茨城観光協会より
あじさいの森
梅雨時に私たちの目を楽しませてくれる代表的な花、アジサイ。
全国的にも、アジサイの名所と言われる場所はたくさん存在しますが、茨城県にも、とりわけ素晴らしいスポットがあることを、皆さんはご存知でしょうか?
今回、紹介させていただくのは、アジサイの品種数が日本一、北茨城あじさいの森です。北茨城あじさいの森におけるアジサイは、1100品種以上で、植栽数は約2万8000株。来年の2018年には3万株を超える予定というから驚きです。
そんな華麗な群生が楽しめる北茨城あじさいの森のアジサイのカテゴリーを、簡易的に一覧化してみましょう。
公共の宿「マウントあかね」
2人1室1泊2食付きで10,160円(税・サ込み)からお泊りいただけます。全室オーシャンビューの客室からは、北茨城市が一望でき、朝は日の出を夜は夜景をお楽しみいただけます。また各種宴会も随時受け付けておりますのでお気軽にお問い合わせ下さい。(市内無料送迎有)広々としたマウントあかね敷地内には、遊具広場やバーベキューハウスもあり、石窯ピザ焼きなども体験できますので、アウトドア派の方には、特にお楽しみいただけるかと思います。
併設するガラス工房シリカでは吹きガラスやバーナーワークなどのガラスづくりの体験もできます。(バーベキューハウスの使用、ピザ焼き体験、吹きガラス体験、バーナーワーク体験は要予約となります)
※北茨城市観光協会より
ガラス工房 SILICA
7世紀後半の円墳で、古代人の髪型「みずら」や埋葬された人骨、鉄柄付青銅製杓など極めて貴重な副葬品が、国内で初めて出土しました。現在は、石室を保護するための覆家が建てられ、一般公開しています。
本を選ぶのに疲れたとき、 お勉強の合間に、 お散歩のついでに、 カフェで一息ついてはいかがですか?
おいしいコーヒーやお菓子が、皆様のお越しをお待ちしております。
北茨城市B&G海洋センター
海洋センターは、プールのみで、市の北部、国道6号線から市道関南関本線に入ると市道に接している、隣接地には、ゲートボール・クロッケー場と関南多目的集会場あり、開設時に活用されている。
http://www.city.kitaibaraki.lg.jp/docs/2017080800084/
花園オートキャンプ場
野口雨情、岡倉天心ゆかりの地に佇むこのキャンプ場、周辺には由緒ある神社や寺院たくさん。風情豊かな景色を堪能してみませんか?
全ての区画にAC電源が備わっているので、とても過ごしやすいキャンプ場です!※なっぷより
泉質が評判。(ナトリウム・カルシウム一硫酸塩温泉)神経痛、筋肉痛、関節痛に特に効果があると言われている。よく温まります。
花園渓谷
花園花貫県立自然公園に指定されている、花園川上流一帯の渓谷が、花園渓谷です。秋には、赤や黄に色づいた紅葉が、付近を流れる花園川に舞い落ち渓流をすべる様は、えもいわれぬ趣があります。麓には花園神社が建ちます。
七ツ滝ハイキングコース(花園神社奥より入口)や、栄蔵室ハイキングコース(花園渓谷より車で15分)があり、晴れた日には富士山を眺めることができます。※観光いばらきより
七ツ滝
七ツ滝は、花園神社からさらに奥山へ進み、花園山付近に源を発する花園川の浸食によって作られ、滝幅は狭いですが、高さは約60mあり、迫力は十分です。そのほかにも花園渓谷一帯には、与四郎の滝、落雲の滝、千猿の滝、箱滝があり、趣の異なった滝巡りも楽しめます。
http://www.city.kitaibaraki.lg.jp/docs/2015021800186/
大北渓谷
北茨城市と高萩市の境界付近を約6キロメートルに渡って続くV字谷が大北渓谷です。新緑や紅葉が花崗岩(かこうがん)の白い川底に映えて、眩しいほどの美しさです。京都・天竜寺の庭は、夢窓国師がこの渓谷をモデルにして造ったという説があります。 渓谷のほぼ中間の断崖の上に長福寺の奥の院となっている継石不動尊があり、そこから雄大な渓谷一帯を見渡すことができます。
※北茨城観光協会より
https://minkara.carview.co.jp/userid/1644328/blog/34924252/
石岡第一発電所施設は、日立鉱山の電力需要の増加に対応するために久原鉱業所日立鉱山工作課長小平浪平及び同課技士宮長平作を中心として建設が進められた水路式発電所施設で、明治44年10月に竣工した。
近代日本有数の銅山として知られる日立鉱山を代表する施設の一つとして、産業技術史上、高い価値があり、また、施設全般にわたって、鉄筋コンクリート技術を用いたわが国で最初の発電所施設である。とりわけ本館は、わが国に現存する最古級の鉄筋コンクリート造建築物として貴重である。
※文化遺産オンラインより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B2%A1%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
白砂の浜辺で磯原海岸のシンボル「二ツ島」を見ながら、海水浴を楽しもう!美しい白砂の浜辺と澄んだマリンブルーが自慢の海水浴です。
フラガールロケ地
旧常磐炭鉱中郷炭鉱住宅
残念ながらロケセットは撤去されてしまいました…
磯原駅東のからくり時計
野口雨情記念館に見学の際 北茨城市磯原駅を訪問しました。
東口の駅前の広場に大きな時計がありました。
磯原出身の童謡詩人・野口雨情が作詞した「シャボン玉」「七つの子」「青い目の人形」3曲を1日7回を演奏しているそうです。
時計台の形も五浦海岸にある岡倉天心ゆかりの六角堂を模しているようです。
尾形山横穴群夢窓窟
磯原町の吟龍院から西に、古墳時代後期の墓である尾形山横穴群が広がっている。この中の1基、大型の家型横穴墓が夢窓窟である。羨道部と玄室部が残されており、玄室は長さ5.1m、幅2.8m、奥壁高2mである。奥壁部には段差によって、棺座が区画されている。嘉元3年(1305) 5月、地元の比佐居士の元に滞在し、そこで悟りを開いたという鎌倉時代の禅僧夢窓国師が、この横穴墓で座禅を組んだという言い伝えがある。※北茨城市公式HPより
花園ヴェルディディキャンプ場
アウトドア派の隠れた人気スポットの「花園ヴェルディディキャンプ場」渓谷での川遊び、森林浴には最適の場所!バーベキューなどを楽しめ、炊事場、トイレなども完備されています。ただ、トイレは..(^◇^;)
※うぃーくえんど茨城様より
十石堀
十石堀は、農民自らの発意と計画により、1669年に建設された用水施設であり、用水路延長約15km、取水水門2ヶ所、分水工2ヶ所、最大取水量毎秒0.36m3、受益面積は78haです。鉄筋コンクリート三面張り水路に改修されている区間もありますが、水源から約2kmの区間は、建設後、350年が経過した現在でも建設当時の姿のまま利用されています。
十石堀が位置する北茨城市は東が太平洋に接していますが、市域の85%を山地と台地が占めているため、海岸近くまで山地と台地が迫っています。
当時、この台地上にある農地は、水源が天水のみであるため、毎年のように水不足によって農作物が収穫できないという被害を受け、農民たちは大変困窮していました。そこで、1668年に、当時の村長であった沼田主計(ぬまたかずえ)は、水不足の解消と新田の開発を目的として用水路の建設を計画し、この地域を支配する領主に願い出ました。
当時の技術水準では、水を大北川から取り入れて台地上へ送ることはできませんでした。そこで、農民らは協力し、水源を直線距離で6km、標高300mの奥深い山中にある大北川の支流に探し出し、そこから自然の地形を巧みに活用しながら、急峻な山の斜面に延長約13kmにも及ぶ用水路を建設するという当時としては革新的な計画を立案しました。計画を立案した当初、領主は、難工事が予想されたため、建設を認めませんでした。しかし、領主は、立案者である沼田主計の命を賭した決意に動かされ、建設を認めました。工事は1668年の8月に始まり、農民らの協力によってわずか約半年後の1669年3月に完成しました。また、建設資材は農民が自分たちの山から調達し、建設費用を領主が見積った額の約10分の1に縮減することができました。十石堀の水は、松井地区、日棚地区、粟野地区の3地区で利用されました。領主は、十石堀の建設と新田の開発に功績があったとして沼田主計を称え、開発された新田のうち、沼田主計にかかる租税を免除しました。沼田主計が租税を免除された新田の米の収穫高が約10石であったことから、建設された用水路は十石堀と呼ばれるようになりました。
この十石堀で建設された導水路「掘割」は、自然の地形が巧みに活かされ、現在も建設当時の姿のまま利用されており、その歴史的価値から北茨城市指定史跡に指定されています。
※北茨城市公式HPより