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主な施設&見どころ
ひたちなか埋蔵文化財調査センター
埋蔵文化財とは、地中に埋もれている人々の生活の跡や、遺物などのことです。ひたちなか市域で郷土の歴史と文化を明らかにする埋蔵文化財を包蔵する土地(遺跡)は、これまでに約300ヶ所余り確認されています。近年、宅地造成などの土地開発事業が急増し、発掘調査によって得られた貴重な出土遺物や調査記録を研究・整理・保存・公開などを行なう為の施設として、平成5年12月に開設しました。このページでは、隣接する、虎塚古墳(7世紀初頭に築造された前方後円墳)と古墳時代末期から奈良時代に、凝灰岩を掘り込んで築かれた横穴墓群の十五郎穴横穴墓群も紹介します。
※うぃーくえんど茨城より
ホテルニュー白亜紀
ホテルニュー白亜紀は、太平洋・鹿島灘を望む高台にあり、部屋の広い窓は、雄大な水平線を見渡すことができます。大海原を一望できる絶景の天然温泉・露天風呂は、ご宿泊はもちろんのこと、日帰りのお客様にも大変ご好評をいただいております。心地よい潮風を感じながら、寛ぎのひとときをお過ごし下さい。
※公式HPより
武田氏館跡
義清父子が住んだ館は,那珂川を見下ろす武田台地の突端部にあったといわれており,この近くに武田氏館を整備しました。この館は,昔の絵巻物などを参考にして,中世の武士の館を再現した建物で,主屋,納屋,厩(うまや)のほか,館の正面には門,板塀,堀を配置しました。主屋の造りは,主屋と玄関をつなぐ中門の張り出しが特徴の主殿造り(しゅでんづくり)と呼ばれる建築様式です。主屋内には,甲斐武田氏発祥に関係する資料や,甲冑・刀・武田遺跡出土資料などを展示しています。
※ひたちなか市公式HPより
那珂湊おさかな市場
那珂湊漁港に隣接する魚市場
その日の朝に水揚げされた新鮮な魚介類をリーズナブルな価格で販売する量販店街として人気があり、関東を代表する観光市場として県内外から毎年およそ100万人が訪れています。また、旬の海鮮料理や、大きく新鮮な魚介類が自慢の回転すしなど、港町ならではのお食事所も多数軒を連ねています。
※観光いばらきより
国指定史跡 馬渡埴輪製作遺跡
古墳時代の5世紀末から6世紀頃(1400~1500年前)に操業していた埴輪製作遺跡です。原料の粘土採掘から形を作り、焼き上げるまでの一貫した遺構と工人たちの住居跡がともに発見され、埴輪製作の実態をよくうかがわせ、古墳時代後期の埴輪製作所跡としてその学術的価値が高いものです。
昭和40年(1965)から平成3年(1991)まで20回に及ぶ発掘調査を実施した結果、粘土採掘坑跡25か所、工房跡12基、窯跡19基、住居跡2軒、溝跡などの遺構が確認されています。遺構からは、人物・馬・円筒などの埴輪が多数出土し、工人たちの使用した土器類や鉄器なども発見されています。昭和44年(1969)8月に国の史跡指定を受けたましたが、その後の周囲の調査により、遺跡が広がっていることが分かり、南側一帯が昭和60年(1985)8月に追加指定を受けました。(指定面積18,514㎡)
※茨城県教育委員会公式HPより
川子塚前方後円墳
古墳時代の5世紀末から6世紀に埴輪を製作していた工場の跡です。本郷川の小支流に面する台地上にあり,水や粘土,燃料など埴輪製作に必要な条件が整った場所であったと考えられます。昭和40年から実施された発掘調査の結果,窯跡19基,工房跡12基,粘土採掘坑25基以上のほか,溝跡も確認されています。また工人達の住居跡2基も一緒に確認されるなど,全国的にも類例の少ない遺跡です。現在は「馬渡はにわ公園」として整備されています。
※ひたちなか市公式HPより
中生代白亜紀層
平磯から磯崎にいたる海岸には、東へ30~40度傾斜した岩礁が連続し、これらは、「那珂層群」と総称される中生代白亜紀の地層です。
岩石は砂岩、泥岩、礫岩などからなり、軟かい部分が波に浸蝕され、硬い部分が残って鋸(のこぎり)歯状を呈しています。地層からはアンモナイト・ウニ・二枚貝・サメなどの化石も発見されています。
特に、この地域から発見されるアンモナイトは、平巻きではなく、巻き貝のように塔形の種類が多く、異常巻アンモナイトの群棲地(ぐんせいち)として有名です。アンモナイトは、約7,500万年前の中生代白亜紀に棲息していたもので、アンモナイトの発見は、茨城県内最初の中生代地層の発見でした。
指定範囲は、清浄石以南の海岸330m2の地域です。
※茨城県教育委員会公式HPより
観濤所
景勝地であり、水戸八景の番外とも言われています。磯崎石(砂岩)に斉昭公自ら揮毫した碑が碑覆堂の中に保存されています。
※ひたちなか市観光協会より
清浄石
水戸藩第9代藩主徳川斉昭公がこの地を訪れ、雄大な景観を賞賛し、藩内随一の波浪の見所として選定した清浄石は古くは阿字石・護摩壇石と呼ばれていたといわれています。
清浄石と名づけたのは徳川光圀公といわれているそうです。
昔からこの付近の岩礁は神聖なものとされてきたということが、
酒列磯前神社御由緒記の碑文の中にも記されています。
※イバラキノートより
建立の由来
昭和十三年、この地に千二百ヘクタールに及ぶ水戸飛行場を設定し、水戸陸軍飛行学校が開校、通信、戦技、武装、高射、科学戦、自動車、特操、左尉官、少年飛行兵等の教育と研究を実施し、東部に陸軍飛行審査部水戸試験場が設置された。昭和十五年、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され、通信教育と研究を移管した。戦局の要請により昭和十八年八月、明野陸軍飛行学校分校が開校、水戸校は仙台に移住した。昭和十九年六月に至るや、分校は常陸教導飛行師団に改編、精鋭空中戦士の養成と研究に加え、本土防空の作戦任務を附与された。
この地にあってその職に殉ずる者および、昭和二十年二月十六、十七日の艦載戦闘機群邀激等により身命を捧げた者その数百八十余柱、また南飛行場に於ても電鍵を片手に華と散った者数知れず、更に昭和十九年十一月以降、特別攻撃隊一宇隊、殉義隊、第二十四振武隊、第五十三四振武隊、平井隊、誠三十五飛行隊、第六十八四振武隊の勇士七十余人は相次いで進発、レイテ沖に、台湾、沖縄海域に敵艦船を求めて突入し國難に殉じた。昭和二十年四月、師団兵力は群馬県新田飛行場に移動し終戦に至った。ここに終戦三十周年を期し、関係者ならびに有志相計り、この戦跡を後世に伝え、殉国英霊の偉業を顕彰し、祖国永遠の平和を祈念してこの塔を建立する。
※水戸つばさの塔
「水戸八景」のひとつを示す石碑で、「水門帰帆」という文字と、副碑には、1938年に建てられた藤田東湖の七言絶句が刻んである。かつて碑のある高台からは、東に太平洋、南に鹿島灘、西に筑波山、遠くは日光の連山を眺望でき、那珂川の白い帆の出船・入船を見降ろせた。水戸八景は、水戸藩主・徳川斉昭が選んだもので、この地は、「水門の帰帆高楼に映ず」と詠われている。なお、それぞれ八景の地には、1834年に斉昭自筆の文字を刻んだ碑が建てられ、現在残る八景の碑はどれも当時のもの。※いつもNABIより
水戸藩の反射炉は、鉄製の大砲鋳造を目的として、安政年間に2基建造されました。反射炉とは、大型の金属溶解炉のことです。当時、全国に公営・民営あわせ十数箇所建造されたといわれています。しかし、元治元年(1864)の藩内抗争(元治甲子の乱又は天狗党の乱という)の際、破壊されました。やがて昭和8年(1933)頃から復元の動きが起こり、昭和12年(1937)12月、吾妻台の跡地にほぼ原形どおりに復元されました。
水戸藩は、徳川斉昭(1800~60)が嘉永年間に至って藩政への関与を許されるようになると、兵器の充実、とりわけ従来の銅製に変えて鉄製大砲鋳造の必要性を痛感するようになり、南部藩士の大島高任(総左衛門)らを反射炉建設の技術者として採用しました。建設地としては吾妻台が選ばれました。地盤の強固なこと、水戸城下3里の近郊で経済的にも廻船業で賑わう藩内随一の繁栄地であること、原料の鉄と燃料の石炭の調達運搬に便利であること、錐入れ水車場の建造にも便宜を有することなどの条件を満たす場所と判断されたためでしょう。
安政元年(1854)8月、起工式が行われました。大工棟梁となった飛田与七(宮大工)の指揮のもと、入念な基礎工事を施すとともに、耐火煉瓦の原料となる粘土を得るため、那須郡小砂村(栃木県那珂郡那珂川町)の土がもっとも適していることを見究め、これに磐城産の燧石(ひうちいし)の粉末を一定の割合で混ぜ合わせることで烈火に耐える煉瓦の焼成に成功しました。大島らは、当初10基の炉の建造を計画したといわれますが、当面は2基の完成を目指すこととし、翌安政2年(1855)1月から建造に着手し、11月に1号炉(西炉)が完成しました。同3年(1856)鋳込みをしてモルチール砲(臼砲)を1号砲から4号砲まで造っています。完成した大砲は約束により幕府へ送られました。もっとも、1基では一度に溶解できる鉄の量はおよそ400貫であるから、2炉以上なければ大型の大砲鋳造はできません。そこで、2号炉(東炉)の建造に着手し、1号炉と同型ながら火廻りに改良を加え、同4年(1857)12月に完成させました。
しかし、先のモルチール砲は、良質の鉄が得られず強度に問題を残しました。 そこで、大島は、故郷南部の釜石(岩手県釜石市)に出張し、かの地に洋式高炉を建設、良質の「柔鉄」(鉄鉱石から精錬した銑鉄)供給に見通しをつけて同5年(1858)年1月、那珂湊へ帰り、鋳造の本格的操業を開始しました。すなわち2月からは2基の反射炉でモルチール砲3門、カノン砲1門を鋳造、さらに4月からは釜石の「柔鉄」2700貫が那珂湊に到着し、これにより3寸径カノン砲3門を鋳造できました。
こうして鋳造作業は、約4年を費やしてようやく明るい展望が開けましたが、前藩主斉昭が再度謹慎の命を受けたとの報が届き、以後操業は事実上中止のやむなきに至りました。これが再開できたのは、万延元年(1860)12月頃とみられ、元治元年(1864)2月までカノン砲数門の鋳込みが行われたものの、同年3月に起こった元治甲子の乱の影響は那珂湊にも及び、10月にはここで激戦が展開されました。このため反射炉も水車場もその戦火のなかで焼失崩壊しました。
那珂湊反射炉の完成は、前述のように安政2年(1855)ですから、年代的には佐賀藩、薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国第4位ということになります。しかし、大島によるわが国初の洋式高炉の建設は、水戸藩の鋳造事業に直結すること、苦心のすえ高度な耐火煉瓦の開発に成功したことは、わが国近代製鉄史上およびセラミックス工業史上に重要な意義をもつものです。また、反射炉が建造された場所に、残されていた当時の煉瓦の一部を取り入れながら復元模型を建て、その敷地を保存してきた先人の功績も忘れてはなりません。これらの点において、那珂湊反射炉は、本県の史跡の一つとして、その存在意義を十分に主張しうるものです。
※茨城県教育委員会公式HPより
虎塚古墳
本郷川右岸の台地上に築かれた前方後円墳です。全長56・5m(メートル),後円部直径32・5m(メートル),高さ5・7m(メートル),前方部幅38・5m(メートル),高さ5・2m(メートル),前方部が発達した古墳時代後期古墳の特徴を持っています。昭和48年(1973年)8月16日に発掘が開始され,9月12日,後円部の凝灰岩製横穴式石室内に保存状態が良好な彩色壁画が発見されました。壁画は凝灰岩の表面に白色粘土を塗り,ベンガラ(酸化第二鉄)で連続三角文や環状文などの幾何学文と,靭(ゆぎ)・槍・楯・大刀など当時の武器や武具等の豊富な文様が描かれています。石室の内部からは成人男子の遺骸の一部と,副葬品の小大刀,刀子(とうす),鉄鏃(てつぞく)などが出土しました。墳丘の特徴や出土遺物から,古墳時代終末期7世紀初め頃(約1400年前)に造られたと考えられます。昭和55年に公開保存施設が完成し,春と秋には石室壁画を一般公開しています。
※ひたちなか市公式HPより
十五郎穴
十五郎穴は古墳時代末期から奈良時代にかけて造られた集団埋葬墓である。台地の崖に横から穴を掘り、造っているものを横穴墓といい、群集していることが多い。横穴墓は、玄室・羨道・玄門・前庭部などから造られており高塚式古墳の横穴式石室と類似した構造になっている。横穴墓からは須恵器、直刀、鉄製品など数多くの副葬品が出土している。十五郎穴横穴墓群は、館出、指渋などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれて密集しているが、このうち館出に群集している34基が茨城県の史跡に指定されている。虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖からは、約120基が確認されているので、十五郎穴横穴墓群は、数百基の横穴墓が存在している考えられ、我国を代表する貴重な史跡である。十五郎穴の名称、由来はこの地に十郎五郎なる人物が住んでいたという伝承から生まれたという。昭和六十年三月/茨城県教育委員会/勝田市教育委員会
※十五郎穴横穴群
市内で最古の形態の円墳
柳ヶ丘集会所東方の台地突端部に位置する古式前方後円墳。丘陵頂部の地形を利用して築かれていて、市指定史跡。墳丘長は41m・後円部直径26m・高さ4m・前方部幅11m・高さ2.3mで、後円部に比べ前方部が著しく小さいことから、古墳時代中期・5世紀初め頃に築造されたと考えられている。発掘調査がされていないので、内部や遺物などは不詳だが、周溝・埴輪・葺石は確認されていない。
※いつもNAVIより
多良崎城は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて吉田里幹によって築城され、吉田氏は多良崎氏と名乗ったという。
しかし、幾度かの城主交代の後、廃城となってしまったそうである。
心霊スポットとしては、アンビリバボーで紹介され、多良崎城跡にはたくさんの自縛霊が存在し、多良崎城の手前を走る道路でも幽霊が出没するそうだ。
※多良崎城跡
本県が生産量日本一を誇る干しいもの産地、ひたちなか市に、黄金色に輝く「ほしいも神社」が完成した。二十三日に竣工(しゅんこう)式が開かれ、地元のサツマイモ農家や干しいも生産者、商工会議所関係者らが参加。「干しいもの神様」に農業振興や商売繁盛を祈願した。 (宮尾幹成)
新たな神社は、同市阿字ケ浦町の堀出(ほりで)神社の末社として創建。水戸藩主・徳川光圀(一六二八~一七〇一年)がご神体となる鏡を発掘したことに由来する社名を「イモを掘り出す」とかけ、干しいもゆかりの神社とした。建築費は、県内外の干しいもの生産者や愛好家からの寄付でほぼまかなえたという。
神社の意匠は、商業デザインを数多く手掛けるグラフィックデザイナーの佐藤卓さんが考案した。社(やしろ)の前に並ぶ二十六基の鳥居は、干しいもに使われるサツマイモの品種「紅はるか」をイメージした黄金色。参道の入り口に立つ大鳥居の左右の沓石(くついし)(土台)は干しいもの形で、「末広がり」を意味する「八」の字に据えた。社紋(神社の紋章)は「干し」とかけて星を図案化している。
敷地内には、干しいもをはじめとする地元農産品の直売所もつくる予定だ。干しいも形の絵馬を売り出しては、といったアイデアも寄せられている。宮本正詞(まさのり)宮司(68)は「商工会議所とも協力し、いろいろなイベントを計画していきたい。干しいもの聖地として、ひたちなかの新たな観光拠点になれば」と期待する。
中米原産のサツマイモは、フィリピンや中国、沖縄を経て薩摩(鹿児島県)に入り、明治時代に本県に伝来。ひたちなか市、那珂市、東海村は干しいも生産に適した土壌や気候で、今では全国シェア九割を超える特産品となっている。
※東京新聞より
全国の熱心な鉄道模型ファン、Nゲージファンの皆様へ 手持ちの名品を走らせたり、気動車の聖地ひたちなか海浜鉄道で乗ったり撮ったりの体感、鉄道模型で作ったり走らせたりを楽しみ、同好の士と鉄板(那珂湊焼きそばや海鮮焼き)で語らいの場を設け大いに懇親。学生時代の文化部の部室さながらといった感じです(^^ゞ 鉄道ファンにとっての憩いの場。なくてはならない秘密基地を手作りとアイデア、ボランティア精神でこしらえます。 毎週、来られる方々で様々な車両や話題が膨らむのも凄く楽しいものです。 皆さまの熱い思いをお待ちしております(^^ゞ
※トリップアドバイザーより